東京大学教養学部報11月号での解説

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複雑系としての生命システムの解析*

金子 邦彦

(*東大教養学部報11月号での解説です。(主に駒場の学生向け)。 他の項目(たとえば..をたちあげるにあたって)と重複がかなりあります)

今年度から「複雑系としての生命システムの解析」というプロジェクトが駒場キ ャンパスで始まりました。これは、分子生物学とは違う視点で生命を捉える新し い軸を作ろうという、野心的ないし、冒険的な試みです。予想される多くの困難 にもかかわらず、こうしたプロジェクトを駒場で始めることは大きな意味がある と思っています。というのは、生物学に今、新しい視点が求められており、それ には数理、物理、化学といった枠にとらわれない協力活動が必要であり、そして そのような共同作業は、駒場でこそふさわしいと思うからです。

この50年の生物学は分子生物学という大きな流れにのってきました。そして、 実際、分子生物学は数々の成果をもたらし、それによって生命の各要素過程の詳細が 次々と明らかにされてきました。現在の分子生物学においては、生命のある現象の 因果の連鎖をさかのぼっていって、なにかを行う分子に求めていきます。そして、 ある分子の濃度が高いとある遺伝子が発現し、ある性質が生じるという「論理機械」の 組み合わせとして生命を捉えようとしています。

一方で多くの生物学者は、コントロールした条件のもとでも生命システムが示す 思いもかけない振る舞いに出遭っています。機械的振る舞いからのずれをもたらす さまざまな不安定性を実感しているのでしょう。しばしば分子(遺伝子)の役割は 多様で、原因結果を一対一に求められなかったり、役割自体が状況によって変化 したりします。また、原因と思われたある遺伝子や分子をとりのぞくと別なものが そのかわりをすることもあります。さらに、細胞の中の過程はすごくゆらぎが多く、 その上、たくさんの要因が絡みあっているので計算機のようには動きそうには ありません。なにか全体と要素がうまい関係をつくることで生命システムが安定に 働いているようにみえます。

振り返ってみると、生物に興味を持つ理由には、機械的振る舞いからのずれにあった はずです。しかし、それをどう科学的に表現したらいいかわからないために機械的な 性質に研究を集中してきたともいえます。そこで、分子生物学の「生命をいろいろな 機械の組み合わせとし、各機械の因果関係を分子に求めていく」という生命観に 対抗しうるような、「生命がシステムとして働いている」ための見方をつくろうと いうのがこのプロジェクトの目標です。ここでは3つの姿勢に基づいてこの困難な 課題に挑もうとしています。

(I) 構成的生物学と生命システムの原型の生成

いま存在する生物は進化という歴史を通した現象なのでどこまでが必然的に満たす べき性質なのか偶然そうなっているのか明らかではありません。そこで、現在の 生物に必ずしもこだわらずに、生命システムのプロトタイプをこちら側から設定し、 それを通して、その一般的論理を明らかにしたいと考えています。では、 プロトタイプとして最低必要なものは何でしょうか。ここでは、外界と区別された 内部を持ち、その中で多様な成分を再生産し続けながら、ある種の恒常性を維持し、 増殖していくものと考えます。

我々の研究室では、内部ではいくつかの化学成分の間の反応が起こる一方、膜を 通して化学成分を外界とやりとりし、「細胞」が大きくなると分裂するという、 最低限の条件を導入したモデルを考え、理論的に調べてきました。すると、こう した最低限のシステムでも、細胞が増えるに従い、いくつかの異なるタイプに分 化し、さらには、幹細胞といわれるような他の種類をつくる細胞からの分化規則 が形成されました。安定な発生過程のための論理も見えつつあります。また、こ れと呼応して、当プロジェクトにも参加している阪大の四方哲也はある条件に置 かれた大腸菌が同じ遺伝子を持ちながら違う性質を持った種類に分かれるという 現象を発見しています。

つまり、進化を通してうまく色々な過程が組み合わさっていることにこだわらな くても生命過程のプロトタイプがあらわれ、そこに生命システムが必然的にみ たす普遍構造を見いだせる可能性があるのです。そして自然の普遍構造をさぐる のはまさに物理学が使命としてきたことです。

こうした構成的手法の研究---つまり進化がつくった生物を調べるのでなく進化を つくる過程をこちらから条件を与えて調べる---をさらに進めていくには細胞集団 をこちらの設定した条件においこむ一般装置をつくってしまえばよいわけです。 そこで、このプロジェクトでは安田賢二(基礎科学科)を中心に、細胞(集団)を こちらで設定した条件に置くための微細加工施設が作られつつあります。よりミ クロレベルの実験としては、遺伝子、酵素などの多様な化学成分の集合からなる 増殖系を構築し、増殖に従って多様性と再帰性(くりかえしほぼ同じものが再生 産されること)をどのように獲得するかをみる、という、生命システム構築が準 備中です。

(II) 細胞集団の発展過程の特性と発生過程の安定性

生命のダイナミックなシステムとしての特性の典型は発生過程にみられるます。 ここでも、非常にうまいルールが与えられているから発生ができるのでなく、む しろダイナミックな変化を通して、状況に依存して安定に働く発生のルールがあ らわれると考えています。この背景には、理論的研究もありますが、より重要な ものとしては、このプロジェクトのメンバー浅島誠(生命認知学科)の発見があ ります。アニマルキャップといわれる未分化の細胞を、彼の見いだしたアクチビ ンという分子にさらします。その時、アクチビンの濃度の違いで心筋、脊索、骨 格筋などの細胞への分化が誘導がされたのです。こうした結果をふまえ、(I), (III)の研究と協同して、こちら側でコントロールした細胞集団がどのように安 定なタイプを形成し、安定な発生過程を作っていくかの論理を求めようとしてい ます。

(III)多対多関係の動的ネットワークとしての生命過程の解析

決まった役割を持った分子や遺伝子からなる1対1の因果関係を追うのではなく、 多くの要因のおりなす、ダイナミックな多対多の関係のネットワークとして生 命をとらえようというのが我々の我々の立場であり、そのための理論をカオス結 合系などをふまえて展開してきました。一方、実験的にこうした研究を進めるに は多数の細胞の動的性質を破壊せずに測り続けるための手段を開発し、それを通 して多種類の分子の濃度の時間的変動(振動)やその細胞間の相関、さらに分子 や細胞の多様性を調べなければなりません。何かの役割をになう分子や遺伝子を 見出すのでなく多くの分子や細胞の動的関係を探るのです。例えば(II)の発生過 程を通して細胞内の成分の多様性、そして変動の度合いなどです。そのためには、 細胞をある性質で分類するセルソーターという装置を駆使し、さらに新たな測定 装置の開発も行おうとしています。そして、(I,II)で構成された生命システムの 特性をこの手法で調べることで、細胞の持つダイナミックな記憶の性質を明らか にし、さらには生命システムの特性を動的なネットワークの性質として表現して いこうとしています。

もう一度駒場キャンパスでこのプロジェクトを行う意義を振り返りましょう。僕 自身は理論物理、非線形の数理の研究から生命の理論を始めました。一方、この プロジェクトでは発生生物学は中心課題ですし、むろん、実験を推進していくの には、駒場がその中心の一つである生物物理が重要です。そして、生命システム を合成するという究極の目標を実現していくには化学レベルの研究が必要です。 むろん、ひとりでこれを全部行うのは不可能でしょう。そこで、各自の分野の研 究を進める専門性と互いの分野を理解する学際性が必要になります。そして、こ れこそまさに基礎科学科、生命認知学科、広域システム学科の駒場の理系3学科 が持つ、本郷にない教育理念です。

このプロジェクトは、今まで他の誰かが考えたアイディアに基づくのではなく、 メンバー達の研究の発展として構想されたものです。科学の歴史には、量子力学 におけるコペンハーゲン学派などのように、あるグループが新しい潮流を担うこ とがあります。複雑系生命科学の「駒場学派」実現の夢をともに追う方が、学生 の皆さんの中からもあらわれることを期待しています。

金子邦彦